日本とシンガポールで感じる窮屈さの理由

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今日は朝から友人たちと香港島にて、ParkviewからQuarry Bayという場所まで犬を連れてハイキングに行ってきた。平坦な道と聞いていたので油断していたが、意外に登り降りがあり、家に帰ってきてから犬と隣り合わせで長めの昼寝をして今に至る。

ハイキング後にQuarry Bayで昼ごはんをしていた時の会話で面白かったのが、マレーシア出身でベンチャーキャピタリストであるYの話だ。彼女は香港に来る前に数年シンガポールで働いていたのだが、「シンガポールは、良い初等教育を受け、大学へ行き、政府など安定して高い収入が得られる場所へ就職し、何歳までに結婚、子供を持ち、彼らにまた良い初等教育を受けさせる」といった「良い人生」の像があって、それが好きでなかったと。

僕はそれを聞いて、まるで少し前の日本の話を聞いているみたいだと思った。と同時に、なぜ自分がシンガポールに行くと、日本にいる時と同じような窮屈な感じがするのか納得がいった。

僕は、これまで日本とシンガポールの街に漂う妙に落ち着いていて、エネルギーのない感じは、普段生活する中でのマナーや法律といったルールが理由だと思っていた。それは、日本であれば例えば電車の中では携帯電話を使っちゃいけないとか、あまり話さない方が良い(日本の列車内の静けさはニューヨークや香港を経験すると異様な感じすらする)といったもの。もしくは名刺の渡し方とか上司と飲む時は下っ端が上司の飲み物を注ぐといった仕事に関するものなど(これも、変に型やルールがないアメリカや香港にいると、まだ下っ端が多い自分からすると面倒なだけだ)。一方、シンガポールだと、ゴミやガムを街に捨てるのが違法とか(僕は一切捨てないが、それが罰則の対象であることで縛られている感覚がある)、どこに行っても街が妙に人工的で整い過ぎていて息苦しいとかそういったものだ。

だが、今回彼女の話を聞いて思ったのは、そういう日常の法律なり明文化されていない暗黙のルールに加えて、人々が抱く良い人生像という理想や思想が多様化していない、というか多様に考えている人があまり多くないのが、窮屈さを感じる理由だということだ。日本の場合、僕の世代だとリーマンショックでリーマンやベアスターンズといった外資系金融が吹っ飛び、最近では東芝やシャープといった巨大メーカーが危機に陥ったことで、どこかの大きな会社に入るのが安全といった考えはもはや神話だと考えている人も以前より増えた。が、とはいえそれはあくまで全体の一部で、多くの人は大企業に入るのが良いみたいな考えがあるだろう。

実際は、個人に実力や実績があって個として確立されていれば、雇用されていようが独立・起業しているか、ましてどの会社で働いているかもさして重要ではない。仕事以外でも、家族や結婚像、ライフスタイルや教育まで、まだまだ考えが偏っている気がする。それは、僕の中学時代の同級生を見て思うw

かといって香港がより多様化した考えを持っているのかというと必ずしもそうではないかもしれないw (ニューヨークは多様化していると思う。)だが、どちらも周りのことをへたに考えない無頓着さというか、無関心さは確実にあるだろう。そして、それは自分にとっては自由で、窮屈さがなくて心地よい。

と、友人との会話から思ったことを綴ってみた。マレーシアとシンガポールは例えば日本と韓国に似た国対国の複雑な感情があるので、今度シンガポール人の友人に会ったらどう思うか意見を聞いてみようっと。彼らは声高に反対してくるかもしれないな。

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